私的まとめ記事

◯3段落目
731部隊で兵器として考案された”風船爆弾”には細菌兵器を載せる
構想があった。しかし、博物館の記述は、不必要に強調されているように
感じる。つまり、罪証陳列館が提示する壮大な計画など存在しないように
感じられる。けれども、被害者側である罪障陳列館の展示者がその真実
に耐えることができるのか。否、それは、マルタ達の無意味な死を受け入れること、すなわち、731部隊による意味の剥奪に服従してしまうことになる。だから、被害者の死を無意味な闇から救いだすためには、物語化は
要請された帰結だった。言い換えると、加害の愚かさを認めることは
加害の反復になるということだ。
 

 

翻って加害者はにとってはそもそも害を記憶などしない。
では、その時、加害の無意味さの記憶=悪の愚かさの記憶はいったいどこに
いくのだろうか。
 
つまりここで、本当に記憶すべきものはまさに加害者たちが
犠牲者を数に買え、固有性を奪い、交換可能な実験材料とし
誰をいつ殺してもいいし、殺さなくてもいいそのような徹底した
無関心こそが恐ろしさの源泉だということだ。
 
すなわち、数の暴力に意味で抵抗するという構図そのものが機能しない。
加害者による数の暴力=忘却と加害側による意味の再付与=記憶は
むしろ共謀して、数による加害という無意味の意味を
見えなくさせてしまう。対して、加害の継承者の責務は、
加害の忘却にもなければ被害者側による物語化の需要にもなく、加害
の無意味さそのものの断固たる記憶にあるのではないか。